宮原知子の両親まとめ!沖縄出身で医者でお金持ちの真相!

今回は、フィギュアスケーターの宮原知子さんについてご紹介します。

日本女子フィギュアスケート界のエースである宮原知子さんの両親が沖縄出身であるとの情報が出回っています。また、両親ともに医者お金持ちだとも言われているのですが、その辺りを詳しく調査してみました。

宮原知子の両親の出身地が沖縄ってホント?

宮原知子さんの両親の出身地が沖縄なのではないか?との噂が出回ったのはなぜなのでしょうか。この画像から考えられる理由は、右側に写っている母親の顔が、沖縄の方っぽいということです。

そしてさらに、宮原知子さん本人も、母親に似て目鼻立ちがはっきりとしており、それが沖縄出身だという情報に変わっていったのだと考えられます。

宮原知子さんの両親と沖縄がどんな関係なのか、はっきりとした情報が見つかりませんでしたので何とも言えませんが、沖縄出身であるというのは単なる噂に過ぎないものと思われます。

 

宮原知子の両親の職業や仕事は医者?写真あり

宮原知子さんの両親の職業は医者です。

宮原知子さんは、ご両親の仕事の都合で小学2年(7歳)までアメリカのヒューストンで暮らしていました。

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2002年にはお父さんが「テキサス大学付属MDアンダーソン癌センター」に留学をしていたこともあるそうで、その時期に家族3人でヒューストンに住んでいたそうです。

2002年ということは、宮原知子さんがまだ4歳の頃ですので、ご両親はアメリカ留学をするかどうかで大変悩んだようですが、結果的には宮原知子さんが7歳になるまで家族3人でアメリカで過ごしました。

そのおかげで、今でも宮原知子さんは英語がとても堪能です。何と小学2年生の頃に英検2級を取得しているのです。海外のインタビュアーに対しても通訳を介さずに英語で受け答えをするなど、ワールドワイドな一面を見せています。

宮原知子さんがスケートを始めたのは4歳の頃です。ヒューストンのショッピングモール内にあるスケートリンクで滑ったのがファーストリンクだったということです。

その後アメリカのスケート教室に通い、小学2年生で帰国して濱田美栄コーチに師事したとのこと。スケートを始めた頃は、発表会に行く前に泣いてしまい、出場できなかったこともあったとか。今の堂々と滑る姿は努力の賜物なんです。

今でこそ、世界の大舞台でも一切物怖じせずに堂々と試合に臨んでいますが、スケートを始めた当時は、発表会に行くのが嫌で泣いて泣いて出場できなかったことも何度かあるようです。

今の宮原知子さんからは全く想像がつきませんが、そんな時期があったからこそ、今の大活躍があるんでしょうね。

 

宮原知子の母親は医者で大学や勤務先はどこ?

宮原知子さんの母親の名前は、宮原裕子(みやはらやすこ)さんです。職業は医師で、京都市立病院血液内科の部長です。

出身は京都大学医学部なのですが、医師としての実績には目を見張るものがありました。

日本血液学会専門医・指導医
日本血液学会評議員
近畿血液学地方会評議員
日本内科学会認定医
日本内科学会総合内科専門医・指導医
日本がん治療認定医機構がん治療認定医
日本造血細胞移植学会造血細胞移植認定医
細胞治療認定管理師

京都市立病院の管理職として、病院内での様々な要職の他にも、広く医療界に貢献する人材として重宝されているようです。

京都市立病院は、京都府京都市中京区にある医療機関。地方独立行政法人京都市立病院機構が運営する病院である。病院の西方には京都看護大学、北方には京都市衛生環境研究所がある。地域医療支援病院の承認を受けるほか、京都府の災害拠点病院(地域災害医療センター)、地域がん診療連携拠点病院など多数の機能の指定を受ける。

病院の理念は「信頼され,安心できる,心のこもった医療を市民に提供します。」。

京都大学医学部時代は弓道部に所属していましたが、特別スポーツが得意だったというわけではありませんでした。そして、娘の宮原知子さんにも、スポーツの英才教育を施そうとは考えていなかったようです。

宮原裕子さんは、娘のことを以下のように評価、分析しています。

人の悪口は一度も聞いたことがない。自分と向き合える性格だから個人競技に適しているのかな

母親だから当たり前かもしれませんが、とても的確な分析です。

宮原裕子さんはかつて、娘を思う母親としての一面と、医師としてのポリシーが入り混じったコメントをしていました。

「患者さんが一番。でも娘のやりたいことは全力で応援する。指導医としても後輩医師に恥ずかしくない背中を見せたい」

母親がキャリアウーマンとして働き続けていたため、宮原知子さんは幼い頃からおばあちゃんに育てられたそうです。そんな宮原知子さんのおばあちゃんに関しては、このブログ記事の一番最後でご紹介しています。

 

宮原知子の父親は体育会系で超エリート?大学や勤務先はどこ?

宮原知子さんの父親も医師で、名前は宮原亮(みやはらりょう)さんです。母親と同じ京都市立病院に勤務しており、呼吸器外科の部長を務めています。

宮原亮さんは京都市立病院内で唯一、胸腔鏡手術とダヴィンチ手術ができる逸材として多くの患者さんの命を救っており、今もなお週に2日のペースで手術を執刀しています。

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医者としての経歴やキャリアと肩書は申し分ない内容です。

日本外科学会専門医
日本呼吸器外科学会専門医評議員
日本胸部外科学会認定医
日本呼吸学会呼吸器専門医
日本臨床腫瘍学会暫定指導医

まさにエリートですね。また、京都大学医学部付属病院呼吸器外科の講師として、大学で教鞭もとっています。

宮原亮さんは、1987年に京都大学医学部を卒業しており、自分自身の母校で後進の指導にも携わりたいという思いが強いようです。

宮原亮さんは、高校3年生の時に、いきなり医学部を目指すと言い出し、猛勉強して京大医学部に合格したという逸話があります。

たったの1年足らずで京都大学医学部に合格できるだけのポテンシャルの高さも然ることながら、意思の強さに感心します。宮原知子さんの意思の強さは父親譲りであると言えそうですね。

ちなみに、宮原亮さんは京都大学進学を決める直前には、高校の先生から、医学部ではなく体育大学への進学を勧めらていたようです。スポーツに長けていて、その遺伝子が宮原知子さんにも受け継がれていることは間違いありません。

宮原亮さんが京都大学で後進の指導に当たっているのは、スポーツで培われた体育会系魂が影響しているのかもしれません。

スケート漬けの毎日を送る宮原知子さんを早朝5時に車で京都市内から大阪府高槻市にあるスケートリンクまで送り届け、時には父親手作りのお弁当をもたせるなど、宮原知子さんを献身的にサポートしてきました。

 

宮原知子や両親の実家は京都でお金持ち?両親の年収は?

宮原知子さんは今もなお、実家暮らしを続けています。そんな宮原知子さんの実家は京都市内にあるのですが、具体的な場所までは特定できませんでした。

両親が勤務する京都市立病院が京都市内のほぼ中央に位置していることや、両親がマイカー通勤をしていることから、京都市内でも中心部から離れた郊外である可能性が高いです。

閑静な住宅街がある京都市北区か渡月橋で有名な京都市右京区が濃厚です。

両親が医者で、幼い頃からスケートを続けているため、実家はお金持ちなのは間違いありませんが、両親の年収はどのくらいなのかを調べてみました。

京都市立病院の部長職でおよそ1500万円ですので、両親を合わせた世帯年収はおよそ3000万円です。これだけあれば、スケートにかかる様々な費用を賄うことは十分に可能です。

と思いきや、スケートにかかる主な費用を調べてみると、曲や振り付け代1曲100万円、スケート靴代5万~20万円、遠征費数百万円~1000万円と結構な金額になることがわかりました。

この他にもコーチの指導料が加わりますので、両親の年収だけでは足りない?と思った方もおられるかもしれませんが、現在は宮原知子さんにはスポンサーが付いています。

スポンサーからの資金援助のおかげで、金銭的にも気分的にもゆとりをもってスケートに打ち込む環境ができあがっています。

 

宮原知子や両親を支えたのは祖母?自宅は京都?

宮原知子さんはおばあちゃん子として育ったのですが、そんなおばあちゃんの名前は宮原淳子さんで、京都市山科区に住んでいます。宮原知子さんの父親である宮原亮さんの実母に当たる人物です。

宮原知子さんが住んでいた同じ京都市内の自宅からは電車で約10分というアクセスの良さもあり、忙しい両親に代わっておばあちゃんが宮原知子さんの面倒を見ていました。

宮原知子さんがここまでスケートで大きく成長できたのはおばあちゃんのおかげだと言います。お父様もお母様も医師として病院で働いていますので、家を不在にすることが多かったようです。

日頃の面倒はおばあちゃんが見ていたそうで、スケートリンクへ通うのもおばあちゃんが付き添っていたのです。

宮原知子さんが通っていたスケートリンクは、京都市伏見区にあった醍醐スケートリンクです。2005年に営業を終了し、今は閉鎖されていますが、数々のフィギュアスケーターを世に送り出してきました。

運転免許を持っていなかったおばあちゃんは宮原知子さんと一緒に電車で遠方のスケートリンクへ送っていってくれたとのこと。練習終わりに食べる夕食のお弁当も持たせてくれて、何から何まで尽くしてくれたそうです。

ちなみに、宮原知子さんが4歳の頃にヒューストンでスケートを習い始めたとき、言葉の壁やグループレッスンに馴染めずに挫折しかかっていた様子を見て、母親が2か月で辞めさせたことがありました。

そのとき、宮原知子さんの祖父母が電話越しで、スケートを辞めさせた宮原裕子さんに対してこう話したそうです。

「何で辞めさせたんだ!続けていれば浅田真央ちゃんのようになれたかもしれないのに」

この電話がきっかけとなり、これまで通っていたスケート教室ではなく、マンツーマンレッスンを受けることができるスケート教室に変えたことでメキメキと実力をつけていったことは紛れもない事実です。

 

宮原知子と祖母の逸話が感動的

宮原知子さんは、今でも必ず週に1回はおばあちゃんの家に遊びに行っています。

2014年秋に夫を亡くし、一日に一言も話さない日もあります。さとちゃんの心遣いが嬉しい。

宮原知子さんの祖父(宮原明さん)は、製薬会社の研究者でしたが、すでに亡くなっているため、宮原知子さんの訪問をいつも心待ちにしています。

そんなおばあちゃんに、宮原知子さんが薄茶色のダウンジャケットをプレゼントしたことがありました。おばあちゃんに似合う色は何色かを悩みに悩んだ末の決断に涙したようです。

私、泣きました。『ばあちゃんに合う色、どれかな。』と迷ったらしいですわ。優しいんです。

そして、宮原知子さんによる最高のおばあちゃん孝行オリンピックでした。

平昌オリンピックの会場で滑る宮原知子さんを生で観戦できたことが、おばあちゃんにとっては最高の思い出だそうです。

孫はかわいいと言いますが、ここまで献身的なおばあちゃんは珍しいですね。ご両親もおばあちゃんには頭が上がらないようです。

そんな家族の全面的な協力の下、今後ますます活躍が期待される宮原知子さんの今後に注目し続けていきたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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